鈴木秀子
文春文庫(1999)
中心になるのは、あくまでも話し手の歩みである。暗闇の中に一人立って、不安を抱えている話し手のそばにいて、目が慣れ、霧が晴れて、道が見えるようになるまで、一緒に歩んでいくのが聞き手の役割だ。
人は誰でも、「唯一の根源的欲求」からあらゆる行動をする、といわれている。唯一の根源的欲求とは、「自分の存在が他者から理解され、認められ、受け入れられ、できれば高く評価され、大切にされたい。と同時に、自分自身もまた自分がよい人間だと思えるような、他の人に役立つ存在でありたいという希求」だ。
気分があまりに落ち込んだり、怒りが大きすぎ、相手が嫌で嫌でたまらない時には、最後の手段がある。それは、ひとり静かな時間を持ち、心が穏やかになった時、”自分にとって縁の深いこの人と死別したり、もう会えなくなったとしたら、得るものは何だろうか、失うものは何だろうか”と考えてみることだ。どんなに嫌に見える人でも、もしその相手が突然、交通事故で死んだとしたら、どんな思いを抱くかを考えるのだ。
通夜の席で、自分にとって大切な、いま世を去った人を悪くいう人はおそらくいないだろう。死を思う時、人はこの世の利害を超えて、自分の心の温かいところに入っていくものである。
①「あなたは愛されています。大切な、かけがいのない尊い存在として、あなたは深く愛されています」
②「あなたは許されています。あなたが公開や自己嫌悪で自分を苦しめている時も、あなたは許され、温かく見守られています」
③「あなたには価値があります。たとえ自分には何もできず、何の価値もないと思っていても、あなたには生きている価値があります」
他者は変えることはできない。過去も変えることはできない。変えることができるのは自分自身と、自分のものの見方だけなのだ。


・徹夜等ハードな日々が続いています。久しぶりにリポビタンDのお世話に。買っといてよかった。
・仕事で使っているWeblogic Workshop、頻繁にクラッシュします。困ったもんだ。
・困ったグーちゃん。ネコ用ドアから勝手に入ってきて、フーちゃんのご飯を食べていきます。朝、食器がピカピカなのでおかしいと思ったら。フーちゃんはと言えば、おそるおそるグーちゃんの匂いを嗅いで固まります。
・ありそうでないのが、Macのエディタ。WindowsではPeggyに慣れていました。こんなのないですかね?
・Microsoft Office Mac版を購入。Windowsの出番がまた減りました。
・Justin Haywardの幻のCD、「Moving Mountains」を 米国Amazonの Marketplaceで購入。 「Days of Future Passed」の Peter Nightアレンジの2曲がとてもいい。最近は、こんなアレンジができる人がいないのじゃないかな。
・マイブームは、飲むヨーグルト。おいしいし、おなかにいいみたい。
・肉をほとんど食べないで、1年と3ヶ月。日和見菜食主義は継続中。ジェームス・スキナー氏の「成功の9ステップ」に影響されたのですが。体調はいいみたいですが、90過ぎた日野原さんが毎日ステーキを食べているというのを聞くと複雑な心境。
・iPhone3.0ではついに音楽ライブラリへのアクセスができるようになります。前から作りたいと思っていたアプリがあるんです。
やっとAppleから許可が下りました。今日、AppStoreから検索してみたら、ちゃんと販売されていました。
Mind Sketchといいます。マインドマップの1種です。
Outlookは、もう10年近く使っているのですが、最近、不満が多く、メインのOSをMacに変えたこともあって、Macの、いいメーラーがあれば乗り換えようと思っていました。
Macに乗り換えた後、どうやってOutlookを使っていたかというと、VMWare Fusion で使っていました。VMWareを使ってまで、Windowsを使わなければいけなかった最大の要因は、Outlookを使わなければいけなかったことかもしれません。
Outlookの不満は、添付したはずのファイルが添付されていないことがある、文字化けが起こる(エンコードを調節して直しても、再び見ると化けている)、迷惑メールのフィルタがお利口ではない、起動時に「正常に閉じられなかった」とのメッセージが出て頻繁に待たされる、VMWareから使っていると、起動して10時間ほど経つと、(多分)Macのメモリ不足になり、ネットに繋がらなくなる(Macの再起動が必要)、環境を新しくするたびに、アカウントの再登録が必要(アカウントを100近く使っているので)等でしょうか。
それで白羽の矢が立ったのが、thunderbird。Firefoxがすごく気に入っていたので自然の流れでした。
乗り換え方法はNAS経由で、メール関連のデータはNASに置くことを前提にして、以下の手順で行いました。
(1)VMWareのWindowsにThunderbirdをインストール
(2)ThunderbirdのprofileのフォルダをNASにコピーして、profile.iniを編集して、NASを見るようにする。
(3)Outlookのメールとアドレス帳をインポートする
(4)MacにThunderbirdをインストールする。
(5)profile.iniを編集して、先ほどのNASのprofileを見るようにする
(6)MacのThunderbirdにアカウントを登録する
以上ですが、いくつか引っかかったところがありましたので、メモを残します。
まず(2)で、Vistaでは通常では、profile.iniは見えません。イクスプローラーの検索オプションで、隠しファイルを検索する、にチェックを入れて、Documents and Settingsを検索します。
それから、MacのThunderbirdで NASの profileを参照する場合、Macの起動時にNASのフォルダをマウントする必要があります。(Finderでパスをたどれば自動的にマウントされますが、毎回やっている訳にもいかないので)これは、
Apple Script でmount命令を書き、ログイン項目に追加します。マウントされない状態でThunderbirdを起動すると、既に起動されているというエラーが表示されます。
インストールしてから、はまったのは、昨日までできていたのに、特定のメールサーバーに接続できない現象です。ネット上にも情報が少しあったのですが、解決策はマシンを再起動すること。私の場合1回の再起動ではダメでした。
鈴木秀子著、「愛と癒しのコミュニオン」より。「イヌネコにしか心を開けない人たち」の香山リカに読ませたい文章です。
歳をとったドイツ人の神父さんに、「どうして神父さんになったのですか?」と聞いたことがあった。彼は長身の背を伸ばし、細面の顔を仰向け、はるかな遠い故郷を眺めているような柔らかいまなざしで、こんな話をしてくれた。
彼はドイツの田舎で生まれた。家は教育関係者を輩出している名門だった。優秀な兄がいた。あまり出来の良くなかった彼は、いつも兄と比較され、「もっとがんばりなさい」といわれた。
小学校五年の夏休み前。終業式の帰り道、もらったばかりの通信簿を鞄から出し、おそるおそる開いて見ると、落第点がいっぱいついている。そのうえ、親への呼び出し状が同封されている。足取りは重くなり、家に入るのもためらわれた。
その時、かわいがっている犬が飛んできた。よろこんでしっぽを振っている犬を見て、少年は家に入らず、近くの野原に向かった。野原の真ん中に座り込むと、犬もそばにきて座り、少年の顔をじっと見上げている。全神経を少年に集中して座っているのだ。
少年は犬を抱きしめながら、ぽつりぽつりと語り始めた。
「ぼくはお兄ちゃんみたいに頭も良くないし、どんなにがんばっても勉強ができないんだ。村で有名なうちに生まれて『将来、人のためになるんだぞ』といわれつづけているのに」
犬は、ひたすら「世の中にこの少年しかいない」という目で見つめている。
「本当につらいんだ。先生にしかられて、『ご両親にこの手紙を渡しなさい』といわれて。お兄ちゃんみたいになりたいんだけど、できないんだ。お父さんもお母さんもわかってくれない。わかってくれるのはお前だけだよね」
「やってもできないことがどんなにつらいか、わかるよね。一生懸命がんばったのに、お母さんに叱られたり、『もっとやらなきゃ』といわれるんだ」
犬はじっと聞いている。少年は胸の内の、ありったけを話し続けた。そうしているうちに、何か胸がすうっとしてきて、もやもやが晴れてくるのだ。
彼は犬を連れて、山一つ超えたところにある湖にピクニックに出かけるのが大好きだった。その湖は霧に覆われていることが多かった。しかし時に、湖上を覆う淡い灰色と蒼色の解け合った雲に、明るい太陽の光が射し込み、霧雲がさっと開けて、突然、美しい湖面が全貌を表すことがある。それは一瞬前とまったく違った光景である。大地から湧き出し、どこをも薄暗さで覆ってしまうような、もやもやとした霧はあとかたもなく消えてしまっているのだ。同じ地点に立っているとは信じられない。
ついさっきまで湿った霧に包まれ、視界ゼロに近い状態だったのに、霧が晴れあがったとたん、まったく違った世界が開けているのだ。明るい太陽の下で、青空と湖は呼応し合い、湖の周りの樹木は、静かに水面に姿を映し、木々の枝をそよ風が渡っていく。調和と安らぎに満ちている。
少年は、犬に心の内をすっかり聞いてもらうと、ちょうど晴れた湖のかたわらに立ち、湖の静けさに包まれているような感じを味わった。そして、今度こそがんばろうと、明るく家路につけるのであった。
こんなに自分のことをわかってくれる者がいる。勉強ができるとかできないに関係なく、自分に対してこんなに忠誠と愛情を注ぎ、この世界で一番大事な存在として扱ってくれる。
少年は、突然、天啓を受けたような感じを味わった。自分の中に力が満ち、動かしがたい確信が、丹田にしっかり位置を占めたのを知った。
「神様は自分を、こういうふうに見ていてくださる」
それは少年なりの神体験だった。そして、一つの考えが自分の全身を貫き通すのを感じた。
「自分と同じように悩んでいる人に、神様がこんなに愛してくれていることを伝えるのが自分の使命ではないか」
こうして、少年は司祭の道を選び。終戦直後の荒れ果てた日本にきて、苦しむ人を助ける道を選んだのであった。
神父さんは繰り返し語っていた。
「あの時、自分の犬が全身全霊を傾けて聞いてくれ、苦しんでいる私と共にいてくれました。その犬に自分の気持ちを全部話してしまうと、不思議と、自分は自分であっていいと思えるようになり、気持ちが楽になったのです。そして、勉強ができなくて悔しいのが自分だ、お母さんに成績表や先生からの手紙を渡さなければならないことを悲しんでいるのが自分だ、お父さんに叱られるのが怖い、それが自分だ、兄さんと比べられるといじけてしまう、それが自分だと、私はいつもは嫌いな自分をも、その時、なんだかいとおしく受け入れられたのでした。そして子どもなりに、自分は自分であっていいと、アイデンティティが確立したような気がします。私はその体験を通して、神様の愛とはどんなものかを知ったのです」
「愛とは全身全霊を傾けて聞くこと、受け入れることに尽きる、つまりその人と共に一致して存在すること、それが愛」
これが神父さんの信条だった。